このレポートの表紙はこちらから。西野達さんの作品「知らないのはお前だけ」 【54 】 の、作品の一部として丸見えの家に滞在2日目。
展示中に友人も遊びに来て、これから兄と小須戸喧嘩燈籠を見に行こうかなと思ってマス。スマートフォン片手にくつろぐ兄。
台所で手を洗う兄。
台所でうがいをする兄。
兄とは2人兄妹だが、年は9つ離れている。
父は典型的な放浪親父で、母が働きに出ていたため、兄はかなり私の面倒をみてくれた。
とはいえ、幼少の頃はいっしょにプロレスごっこしたり、そのままケンカしたり、兄妹らしいこともしていた。
けれど、兄は高校を卒業後、近所で一人暮らしをし、ハタチになる頃には結婚したので、子供として一緒に暮らした時間は、たった9年。
家族とは言え、10年も一緒に暮らしてなかったんだなぁ。
だからこそ、この天井のない我が家で、家族水入らずの暮らしを展示しているのがおかしかった。
↑我が家の玄関先を写真で納める母。
一息つき、兄に町を案内することにした。
なんといっても、今日は喧嘩灯籠祭だ。
母が留守番してくれるとのことで、その言葉に甘える。
ここはテレビが映らない。
インターネットの電波も弱い。
娯楽が少ない我が家にて、留守番する母が、最近カルチャースクールで習っているという絵手紙を書き出した。
本番の絵を書き出す前に、半紙にタテやヨコ、円などを描いて集中するという。
なかなか本格的じゃないか。
炎天下の中、兄と二人で出発する。
兄と二人で歩くのは、そんなに久しぶりじゃない。
去年の秋に積年の誕生日プレゼントまとめて払いとし、兄を東京の岡村靖幸ライブに招待して一緒に行ったり、先日の長岡花火も、私がひとりで遊びに行ったので日中の世話は兄がしてくれた。
最初は少し戸惑ったものの、最近は兄と二人で歩くことも慣れてしまった。
まず最初に、諏訪神社へご挨拶する。
本殿の中は広く、祭の為かご本殿まで開かれており、ご神体の鏡が見える。
立派だ。
表通りに進み、
南条嘉毅さんの作品「信濃川」 【53】
を案内する。さっき聞いたお話を説明しながら。
このレポートを書きながら気がついただのけれど、この日、祭のため午後は休館だったらしい。
まるで勝手知ったる我が家かのようにズカズカ入ってしまった。
快く向かえていただいて改めて感謝する。。
通りにまた活気が出てきた。
作品を案内してくれたボランティアの中学生が、夜は盆踊りに行くという広場を見に行こうと歩き出した。
住宅街のすき間から見えた広い空に、角田山妙光寺で見た作品のような雲が浮いていた。
通りを進むと法被を着た人々が賑やかにくつろいでいた。
どうやら、この先で喧嘩灯籠の対戦クジが引かれているらしい。
兄はなんか、地元に人に話しかけている。
「お兄さんたちはどこから来なすった?」
「あ、長岡です」
これが喧嘩灯籠の中身。
喧嘩の本番には中の人形は外されるとのこと。
ちなみに、この人形の由来などはとくに「分らない」ということだった。
(まぁ、華美さを競う口実みたいなものだからね)
そして、子ども達はみんな太鼓が叩ける。
バチを奪い合って競って叩いていた。
「ユウ、喧嘩灯籠担ぐことになった!」
!?
突然兄に話しかけられたかと思ったら、予想外の言葉に耳を疑った。
え!?
次の瞬間、兄は深々と頭を下げ、嬉しそうに法被を羽織っているじゃない。
金髪で前歯のない兄(44歳)……
「長岡から来た人が、燈籠担ぐの手伝ってくれるってよぉ~」
「嫁さんも着るけぇ?」
はい! と勢い良く答えつつ、いいえと否定する。
確かに、この年で兄妹2人行動する人なんてほとんど居ない。
夫婦に間違われて当然だ。
大多数の人の誤解をそのままにしておきながら、えげつない下ネタの冗談にぞっとしたりする。(兄妹と夫婦じゃホントに大違いだ!)
実兄と粋なお兄さんのはからいで、桜組に入れてもらった!
ピンクの法被が嬉しくて眩しい。
わんやかんやしてる間に、細くこよられた白いクジを掲げたおじさんが勇んで戻ってきて、みんな一斉に立ち上がる。
「竹組みだー! うおおおおおお!」
どうやら対戦相手が竹組みに決まったらしい。
竹組、午前中に見た!
あの時間まさか、ライバルになるだなんて思っても見なかった。
竹組。新潟美人が担いでいた、あの燈籠だよ。
桜組も決戦の舞台へ向け出発!
「佐渡が見ーえーまぁすぅ、エラセッラ! エラッセラ!」と独特の抑揚の利いた歌に合わせ士気を高めていく。
やっぱり燈籠を担ぐのは重労働だ。
少子化に加え、祭をうっぷんの発散として活用できる若者が少なくなっているらしい。(分る気がする)
年々参加者が減っているそうだ。
「10年前はもっと凄かったんだから。ビックリしちゃうよ?」
と異口同音に語られていたのが印象深かった。
兄が写っている写真をセレクトしたはずが、間違えて消してしまったらしく全然残ってない。兄のカメラではちゃんと撮ったと思うから、許して欲しい。
いよいよ戦いの舞台に付いた。
そこは作品が展示してある町屋・薩摩屋の前の十字路だった。
昔は担いだままぶつかり合い、祭が終わった後も闘志が消えない氏子たちが路地にお互いを引き込んで喧嘩が続くこともあったらしい。
そうでなくても観客たちが、屋根から石を投げ込むなど「死人が出ないのは神さまのおかげ」と言われるほど激しい喧嘩祭だったそうだ。
そのため、何度か廃止になったそうだ。
「あくまでも神事だからね、神社が“華”を辞めろって言ったら、辞めるしかねぇんだよ」
喧嘩燈籠を“華”と呼んでいるのが印象深かった。
現在の形となって復活したのは数年前だそうだ。
装飾品を取って、燈籠を補強し、横に倒した状態で20m先から一気にぶつけあう。
見どころは、ぶつかりあう時に先端で屋根を持つ3人のチキンレース。
ずっと持っていては挟まれて大けがを負ってしまう、けれど早々と逃げては男が廃る、といったところか。
喧嘩燈籠祭において、お互いの自慢の品である燈籠を守り喧嘩するわけだが、では逆に狙う所は、と聞くと。
「それはやっぱり、表の人形の看板と、この旗よ」
それぞれの組の紋が描かれた大きな旗。
そうか、海賊旗と同じなのだ。(ワンピース読んでます)
決戦を控えた燈籠の前で写真を撮ってもらう。
私は単なる記録係だけど、闘魂はあるよってことで恐い顔をする。
喧嘩の舞台で太鼓が始まった。
もうすぐ喧嘩が始まる。
桜組の人にどこで見るのが良いですかね、と尋ねると「商工会館の上が良い」と言うことで2階に上がる。
そこにはもちろん、先輩カメラマンが詰めかけていた。
町の人の喧嘩太鼓のあと、巫女さんたちの太鼓。
そしていよいよ、喧嘩燈籠!
「若衆頭」と書かれた法被を着た、組の代表が握手をする。
いよいよ、いよいよだ。
沿道で子ども達が「さーくら、さーくら、さーくら!」と囃し立てる。
桜組、大人気じゃないか。
そしてーーー!
燈籠がぶつかり合い、止まるや否や数人の男たちが駆け上る。
燈籠の屋根や柵を引きはがして破壊したり、その男を羽交い締めで防いだり。
下は下で殴った殴らないの小競り合いをしているようだ。
数分でホイッスルが鳴り、それでも騒ぎが治まらないのでサイレンが鳴る。
それぞれの燈籠はお互いに「勝った! 勝った!」と勇ましく声を上げ、別々の路地へと賑やかに消えていった。
上から見ていたせいかさっぱり分らない。
ひとまずあの「海賊旗」は無事なようだ。
いったい、勝敗は如何に!?
慌てて桜組を追いかける。
挨拶のあとこの日は締められた。
この後、燈籠の破損を一晩で治して、明日には神社に戻すらしい。
看板も無事だ。
この喧嘩燈籠祭、喧嘩に勝敗はないらしい。
喧嘩によって流血する若者も居たが、おじさんたちが竹組に挨拶して、祭のことだからと話し合うと言っていた。
「大人の喧嘩だからな」
と長井利夫さん。
長井さんは越後の伝統織物「小須戸縞」の最後の職人さんで、小須戸はもとより新潟の歴史に詳しい。
特に戦時中、東京から疎開してきた子ども達のその後を追跡取材し、論文作成に大きく貢献したとか。
あの薩摩屋に長井さんの作品があると言うので見せてもらった。
こういった越後の織物は小須戸縞の他に、亀田縞(かめだじま)、小千谷縮(おぢやちぢみ)などがあるそうだ。
お店を出るとすっかり日が暮れていた。
みんな盆踊りへ出かけているのだろう。通りはすっかり静かになっている。
そこにぽっかり、神輿を守る巫女の姿があった。
写真を撮って良いですか? と尋ねると、どうな感じが良いですか? と逆に問われ、
じゃ、まずは巫女っぽい感じで、とお願いする。
じゃー、次は、いつもの感じで。
彼女たちは地元の高校生だそうだ。
巫女のバイトは、1度しかできないらしい。
兄が酒屋に立ち寄った。
部外者にもかからず、法被を着て仲間に入れてもらった桜組のみなさんへのお礼を買う為だ。
「日本酒は1本じゃなくて2本差し入れるもんなんだ。それに祭だからな、上等な酒じゃないと。こういう時は見栄を張らないとね」
店主にのし紙の名前を尋ねられる。
「あ、うーん。どうしようかな。名乗ってなかったしなぁ」
のし紙には「長岡から来た人」と書いてもらった。
あー、何たる夏休みか。
真っ暗な夜道を兄と二人で歩く。
今日、あったことを母に説明するのが大変だね。
「ああ、整理できてないよ」
と、兄は笑った。
【余談】
レポートを書く為にいろいろ検索していたら、ローカルインターネットテレビでこのお祭りが取り上げられていた。
(小須戸喧嘩灯籠まつり(2012.08.25) By NiigataBBTV |YouTube)
そこには喧嘩をそっと見守る兄と、喧嘩の後をササッと撮影して後を追う私の姿が。
「No_2」の方にはもうちょっと、喧嘩を止める兄や、私の姿がちょこまかと写ってました。なんか嬉しいわ~。
家に帰ったら母は絵手紙を数枚仕上げ、その後、幹線道路沿いで見つけた台湾料理屋さんに入ったら、どうやらニューオープンだったらしく大盛況。
ハイテンションで吐露しまくる兄に、この人、こんなに喋る人だったんだなーと、家族らしいうっとおしさに感じ入りながら夜は更けていきました。
長かった「水と土の芸術祭」レポートも、もちろん天井のない我が家生活も翌日で終わり!
夕方にはここを出て、東京に戻ります。
最終日は天井がない非日常の、日常でした。